翻訳こんにゃく

日本人です。
生まれてこのかた21年、にほんごでくらしてきました。
私の思考回路は にほんご という言語によって構成されています。


本を読むのがすきです。
でもやはり、にほんごを使う文化を持った人の本ばかり読んでしまいます。
異国の文化圏で、異国のことばで書かれた本をにほんごに訳したものには
あまり興味を抱けないからです。


翻訳 とは ほとんど 新たな作品の 創作 だと思います。


だって絶対異国の生活の中で生み出されたことばなんて理解できないもの
それがたとえにほんごに書き換えられていたとしても。
その季節感を知らないし、その景色を知らないし、価値観も、わからない。
結局その作品をにほんごに変換した訳者の解釈であって、
つまりは翻訳された瞬間に、その文章は
訳者の著作になってしまうところがあると思うのです、多かれ少なかれ。
だから、異国の著書を厳密な意味で理解できることはないのでしょう。




と、長いこと思っていたのですが、よく考えてみると、べつに
にほんごで書かれていたからといって、完全に理解できることなんて
ひとつもないのかもしれない、と最近思います。
育った場所や時代背景によって絶対理解できないことがあると思うし
そもそも似た環境に育ったからといって同じように考えているわけじゃないし
横に座っている人がいったい何を考えているかなんて、
実は何にも分からないのです。
にほんごが理解できたからといって、その想いが理解できてるわけではない。
人と人とのつながりなんて勝手な思い込みであって、誰かと何かを共有するなんて
とても幻想的なことのような気がします。


異国のものだから
日本のものだから
というカテゴライズは、本当は無意味。
くだらない先入観なんて捨ててしまったほうが
いいものをたくさん、みつけられることでしょう。


そういえば小学校の頃はアルセーヌルパンに憧れていたなぁ。
「怪盗紳士」ってことばがかっこよくて。
つまりは翻訳のセンスがかっこよかったってことだけど。