やりなおし、やりなおし


歯医者へ行く。
むしばの治療。
なかなか行くきっかけがつかめず
詰め物がとれてから一年以上が経過。
歯医者に通っているときは
ああ、絶対もう虫歯なんか作らないぞ!
って堅く心に誓うのに、
実行できたためしがない。
たとえば、一年前に、詰め物がとれた時に
すぐに歯医者にきていたらどうだっただろうかと
ふと思う。


この程度の人生の分岐点はざらにあると思う。
この、ごくちいさな「ifもしも」で
ちがう選択肢を選んでいて、何か大きな変化は訪れたのだろうかと
ふと考えてしまう。
小さな分岐点が一日の中でもものすごくたくさん存在して、
それらを全ての人が無意識的に選択して
今この瞬間の現在という状態がある。
現実なんてなんとも危うく、曖昧なものだろう。
だから、いつかの自分に戻って違う道を選択したとして、
そこに広がる現実は全く異なったものになってしまう可能性は
まあゼロではないのだろう。
今日1時間早く起きていたら、公園で100万円拾ったかもしれないし、
原宿で芸能人とすれ違ったかもしれない。
もしくは車に引かれて、死んでいたかもしれない。
あったかもしれない過去やこれから起こるかもしれない未来についての可能性は
死ぬほどたくさんあり過ぎて、考えるとなんだかばかばかしくなってしまう。


こんなことを考えたのは重松清の流星ワゴン流星ワゴン (講談社文庫)を読んだからである。
もう死んじゃってもいいかなぁと思った主人公が
成仏できない親子の運転するワゴンに乗って
今の自分と同い年の父親に出会い、
一緒に過去の人生の分岐点に戻る。
果たして最悪の現実を変えることはできるのだろうか!?
というお話。
なんかこうやって書くとすごくSFじみて聞こえる
(から、前々からこの本を読むのをためらっていた)けど、
平たくいうと「親の心子知らず」というお話。
バックトウザフューチャー(カタカナだとピンとこないね)では
帰ってくると未来がちょっと変わっててハッピー!だったけど
そんな過去の分岐点をちょいといじくったところでハッピーになれるほど
簡単にできてないだろ、現実ってのは。
重松清さんの作品は小説だからといって何でもうまく転ぶほど
人生は甘くないんだぜ、という作品が多くて、大変共感できる。
ものすごい悲劇というわけでもなく、かといって
ハッピーエンドでした。ちゃんちゃん。
という作品もなく、
小説が終わっても、主人公たちの人生は続いていくわけで、
きっとまた悩んだり嫌になったりするんだろうけど、
なんとなく、最後に希望のようなものが残る。
久々にものすごく泣いた。


体育の授業をさぼり、
この小説を読んだことがなにかよからぬ運命の分岐点だったとしても、
後悔、しないよ。うん。